2011年01月23日
2007年12月07日
民話「永明寺の子安さん」
「永明寺の子安さん」。【地図】
西伊豆町宇久須の永明寺に伝わる民話です。
<カネジョウさんの文書を引用しています>
【永明寺の銀杏】
永明寺の本道の間に小安像が安置されています。木製で高さが約90cm。胸に赤ちゃんを抱いて、温かで柔和なお顔をしています。
「永明寺の子安さん」と呼ばれていて、ご近所の人たちに親しまれています。「安産を見守り、子どもの健やかな成長を助けてくれる」という観音様です。子宝に恵まれるようにと、お参りに来る人も多くいます。

昔は、仁科や大沢里の人たちは子安さん参りのために、大久保の「やしゃばら峠」を越えてきました。そして願い事を紙に書いて、境内の大銀杏に結び付けて帰られたそうです。子安さんは、子安神とか子安地蔵とも呼ばれ、仏様でもあり神様としても祀られています。時々、しきみに代えて榊を供えていうことがあります。

清和、陽成、光孝天皇の御代の歴史書、三代実録には、美濃の国子安神という記述があり、子安さんは式外古神とされています。神社は式内社といい延喜式神名帳に記載されています。
したがって子安さんは、式外古神として仏教伝来以前にも、妊婦の安産を守る子安信仰の対象として存在していたと考えられます。
子どもが安らかに生まれることを願う心情は、未来永劫つながるものですので、宗教においても子安信仰が存在することは当然の理です。

永明寺の子安像は文化十一年(1814年)の棟札によると、もとは大久須に、中の堂があり、同年七月、山口県三田尻村の行者、作次郎が今の像を彫刻し安置したということが、永明寺住職の仁寛尚の撰文に記してあります。子安像を祀っていた中の堂は、永明寺の管轄下にあったのでしょう。
堂の荒廃が酷くなり明治の初めに、永明寺に移されました。大正十三年九月、現在のものに再興されたとのことです。
西伊豆町宇久須の永明寺に伝わる民話です。
<カネジョウさんの文書を引用しています>

永明寺の本道の間に小安像が安置されています。木製で高さが約90cm。胸に赤ちゃんを抱いて、温かで柔和なお顔をしています。
「永明寺の子安さん」と呼ばれていて、ご近所の人たちに親しまれています。「安産を見守り、子どもの健やかな成長を助けてくれる」という観音様です。子宝に恵まれるようにと、お参りに来る人も多くいます。

昔は、仁科や大沢里の人たちは子安さん参りのために、大久保の「やしゃばら峠」を越えてきました。そして願い事を紙に書いて、境内の大銀杏に結び付けて帰られたそうです。子安さんは、子安神とか子安地蔵とも呼ばれ、仏様でもあり神様としても祀られています。時々、しきみに代えて榊を供えていうことがあります。

清和、陽成、光孝天皇の御代の歴史書、三代実録には、美濃の国子安神という記述があり、子安さんは式外古神とされています。神社は式内社といい延喜式神名帳に記載されています。
したがって子安さんは、式外古神として仏教伝来以前にも、妊婦の安産を守る子安信仰の対象として存在していたと考えられます。
子どもが安らかに生まれることを願う心情は、未来永劫つながるものですので、宗教においても子安信仰が存在することは当然の理です。

永明寺の子安像は文化十一年(1814年)の棟札によると、もとは大久須に、中の堂があり、同年七月、山口県三田尻村の行者、作次郎が今の像を彫刻し安置したということが、永明寺住職の仁寛尚の撰文に記してあります。子安像を祀っていた中の堂は、永明寺の管轄下にあったのでしょう。
堂の荒廃が酷くなり明治の初めに、永明寺に移されました。大正十三年九月、現在のものに再興されたとのことです。
2007年12月07日
永明寺の大銀杏
西伊豆町宇久須にある、「永明寺」の銀杏が紅葉の最盛期を迎えました。
【永明寺の銀杏】
道を走ると一際目立っています。

境内は、黄色の落葉で、まるで黄色の絨毯のようです。
里の秋も終焉を迎えようとしているんですね。
【永明寺はここです】


道を走ると一際目立っています。

境内は、黄色の落葉で、まるで黄色の絨毯のようです。
里の秋も終焉を迎えようとしているんですね。
【永明寺はここです】
2007年05月08日
驚き情報(しょうがを作らない家)
なんと、宇久須の民話として書いた
「しょうがを作らない家」(5月2日のブログ)の民話ですが、
宇久須神田在住の、本家本元・・・
このお話が先祖にあたると言う、山本光枝さんから情報を
いただきました。
山本さんの旧姓は「宮石」さん。
この宮石の姓を名乗る一族が、このお話の末裔にあたります。
8軒の宮石さんの畑では、現代でも、しょうがはないのだそうです。
神田でも他の家では、畑でしょうがを作っているのだそうですが
一切、作らないことを頑なに守っているのです。

うーん。民話では無かったのですね。
実際にあった史実でした。
「しょうがを作らない家」(5月2日のブログ)の民話ですが、
宇久須神田在住の、本家本元・・・
このお話が先祖にあたると言う、山本光枝さんから情報を
いただきました。
山本さんの旧姓は「宮石」さん。
この宮石の姓を名乗る一族が、このお話の末裔にあたります。
8軒の宮石さんの畑では、現代でも、しょうがはないのだそうです。
神田でも他の家では、畑でしょうがを作っているのだそうですが
一切、作らないことを頑なに守っているのです。

うーん。民話では無かったのですね。
実際にあった史実でした。
2007年05月02日
しょうがを作らない家(民話伝承)


人里近くで秘境の雰囲気が味わえるウォーキングエリア。静かに滴り落ちる珍しい滝。マイナスイオンとフィトンチッドがあたり一面。宇久須にお泊まりなら御一緒に歩いてみませんか 【詳しくはこちらをクリックしてください】
【宇久須の民話シリーズ 2】
しょうがを作らない家
昔、昔のお話です。
源平の戦いに敗れた平家の落ち武者が、諸国を彷徨い歩き、
神田の里

長い逃亡生活で、落ち武者は着物も無残に破れて、目はくぼみ、
髪は伸び、髭面で、全身まっくろな垢に汚れていました。
もとは平家で名だたる名将であったのかもしれません。
ようやく、ここまで辿り着くと、畑の中に座ったまま動こうともせずに
はく息も細々としていました。
敗れた平氏の残党狩りは執拗に続き、ここ西伊豆の田舎にも
鎧兜に身を固めた数人の源氏の武者がやってきました。
源氏の追っ手は、畑にいた里人に、
「ここに平家の落人が逃げてこなかったか」と尋ねました。
哀れに思った里人は、黙っておこうかとも思いましたが、
もし、嘘が分かれば切り殺されます。
しかたなく震えながら、落人が隠れている畑を指さしました。
源氏の武者たちは畑にずかずかと入っていくと、落人を見つけました
戦う気力も無く疲れ切っていた落人は、刀を抜く力も無く、
あっという間に斬り殺されました。
固唾を呑んで震えながら見守っていた里人は、
骸(死体)のそばに座りこみ、恐ろしさと後悔で口もきけず、手を合わせ、
祈ることさえ忘れていました。
あまりのショックからか、高熱と後悔で毎日うなされ、
起きあがることもできずに寝たきりの状態になってしまいました。
里人は、落人の骸(死体)を丁寧に葬り、祀りました。
落人が、隠れた畑が「しょうが畑」だったのです。
それからというもの、落人の霊を慰めるため、しょうがを作らないことを、
里で誓い合いました。
隠れ場所を教えた、畑の農家では代々しょうがを作らないということです。
※現在も神田ではしょうがは作らないそうです・・・
でも、買ってきて食べるとのことです。
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追記です!
神田在住の「みつえ」さんより、情報をいただきました。
現在、神田で、しょうがを作らない家は7軒。
「宮石」家だけなのだそうです。つまり、この伝承にある
一族は「宮石」一族なのです。情報をくれた、みつえさん・・
旧姓は「宮石」さんです。末裔の方です。
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2007年05月01日
天狗(民話伝承)
【宇久須の民話シリーズ 1】
「天狗」
昔、昔のお話です。
神田の山奥に寺沢
《この辺り》という場所があり、
その地名のとおり、立派なお寺がありました。
里へ買い出しに行くには、行き帰りに半日も、かかる距離です。
里は、ほとんど雪が降りませんが、寺沢には、雪が積もりました。
そんな山深い場所に、一人の炭焼きが住んでいました。
(※現在は誰も住んでいません。昔は2、3軒の家があったそうです)
天城山から、たくさんのシシ(猪)やシカ(鹿)が寺沢に下りてきます。
ある日、炭焼きはかわいわ(傘の形をした大きな岩)へ、シカ射ちに
出かけました。
しばらくすると、スズタケの中を一頭のシカが、下ってきました。
そのとき、鉢巻をした猟師が登ってきたのが見えたので、炭焼きは
チャンスと思い、猟師に向かって大声で叫びました。
「今、そっちへシカが行くぞ!」
そして炭焼きは、その様子を息を潜めて見ていました。
おかしなことに、猟師は、シカを射つ様子がありません。
あれよ、あれよという間に、シカと猟師が、ぶつかる位置になりました。
その時、風も無く静かだったスズタケが急にざわめき、一陣の風が吹き
抜け、枯葉が空に舞い上がったかと思うと、それは枯葉ではなく、大きな
羽根を広げた化け物でした。
化け物はシカをひょいと抱えると、あっという間に山向こうへ
飛んでいって消えたのです。
炭焼きは、びっくりして、腰をぬかしてしまいました。
里の人たちに、この事を話すと皆、驚きました。
「それは猟師のように見えた、天狗様だったんではないか」
と話したということです。

現在の神田の集落(撮影は4月1日)
「天狗」
昔、昔のお話です。
神田の山奥に寺沢

その地名のとおり、立派なお寺がありました。
里へ買い出しに行くには、行き帰りに半日も、かかる距離です。
里は、ほとんど雪が降りませんが、寺沢には、雪が積もりました。
そんな山深い場所に、一人の炭焼きが住んでいました。
(※現在は誰も住んでいません。昔は2、3軒の家があったそうです)
天城山から、たくさんのシシ(猪)やシカ(鹿)が寺沢に下りてきます。
ある日、炭焼きはかわいわ(傘の形をした大きな岩)へ、シカ射ちに
出かけました。
しばらくすると、スズタケの中を一頭のシカが、下ってきました。
そのとき、鉢巻をした猟師が登ってきたのが見えたので、炭焼きは
チャンスと思い、猟師に向かって大声で叫びました。
「今、そっちへシカが行くぞ!」
そして炭焼きは、その様子を息を潜めて見ていました。
おかしなことに、猟師は、シカを射つ様子がありません。
あれよ、あれよという間に、シカと猟師が、ぶつかる位置になりました。
その時、風も無く静かだったスズタケが急にざわめき、一陣の風が吹き
抜け、枯葉が空に舞い上がったかと思うと、それは枯葉ではなく、大きな
羽根を広げた化け物でした。
化け物はシカをひょいと抱えると、あっという間に山向こうへ
飛んでいって消えたのです。
炭焼きは、びっくりして、腰をぬかしてしまいました。
里の人たちに、この事を話すと皆、驚きました。
「それは猟師のように見えた、天狗様だったんではないか」
と話したということです。

現在の神田の集落(撮影は4月1日)
2006年09月14日
宇久須懐古談
久しぶりの雨模様の安良里&宇久須です。
粒の小さな雨が降っていますが、空は明るく止みそうな雰囲気。
海は穏やかで、のんびりとした安良里の海岸。
近頃は日中も、涼しくて過ごしやすく、朝晩は寒く感じます。
うだるような日はなくて、快適な気候ですね。
水温も高く、今が一番良いシーズンです。

昨晩は宇久須の、かねじょうさんが遊びに来てくれて、おいしいアワビやマグロの刺身などをご馳走になりながら、宇久須の歴史など貴重なお話を伺いました。
昔の写真などをいただいており、「宇久須の今昔」のような写真集など作られたらどうか・・・などと思います。
現在はコンクリート護岸の宇久須漁港も、昔の写真を見れば、砂浜が広がる風光明媚な海岸。
海面に突き出すように生える「一本松」など、開発の過程がわかりますね。
我が家の隣に住む90歳のおばあちゃんに見せたところ「懐かしいねぇ。これっ私だよ」と・・・。
民宿黄金崎さんは「よくこの一本松の先から飛び込んだものさぁ」・・・。
昔の思い出話に花が咲いたひと時。知れば知るほどに興味深い宇久須です。
粒の小さな雨が降っていますが、空は明るく止みそうな雰囲気。
海は穏やかで、のんびりとした安良里の海岸。
近頃は日中も、涼しくて過ごしやすく、朝晩は寒く感じます。
うだるような日はなくて、快適な気候ですね。
水温も高く、今が一番良いシーズンです。

昨晩は宇久須の、かねじょうさんが遊びに来てくれて、おいしいアワビやマグロの刺身などをご馳走になりながら、宇久須の歴史など貴重なお話を伺いました。
昔の写真などをいただいており、「宇久須の今昔」のような写真集など作られたらどうか・・・などと思います。
現在はコンクリート護岸の宇久須漁港も、昔の写真を見れば、砂浜が広がる風光明媚な海岸。
海面に突き出すように生える「一本松」など、開発の過程がわかりますね。
我が家の隣に住む90歳のおばあちゃんに見せたところ「懐かしいねぇ。これっ私だよ」と・・・。
民宿黄金崎さんは「よくこの一本松の先から飛び込んだものさぁ」・・・。
昔の思い出話に花が咲いたひと時。知れば知るほどに興味深い宇久須です。